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朝日姫(あさひ)と家康の仲は?夫は?死因やお墓、子供や子孫も調査!

豊臣兄弟!
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朝日姫の兄は、

有名な豊臣秀吉や秀長です。

2026年NHK大河ドラマでは、

朝日姫(あさひ)の役を

倉沢杏菜さんが演じます。

家康の妻になった朝日姫について、

家康との夫婦仲はどうだったのか?

夫は2人?前の夫との離婚理由は?

死因やお墓は?子供や子孫は?

調査してみました。

 

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朝日姫(あさひ)と家康の仲は?

朝日姫(あさひ)(※史料によっては

旭と表記)は、

天正14年(1586年)5月に、

徳川家康の正室に

なりました。

花嫁が44歳、花婿が45歳

朝日姫と家康の夫婦仲は

どうだったのか、ですが、

家康は、とても丁寧に対応された

ようです。

 

ところで、この二人の縁組、

家康を従わせるための、

秀吉側の命令かと思えば、

別の見方もあるらしいのです。

 

実は、

天下人秀吉の妹をめとることで

義弟になれば、

豊臣一族の中での地位が上がり、

ひいては、家康が天下をとるのに

立場が有利になるからと、

家康側から申し入れた、

のではないかという見方です。

 

私は、これを知って、

どちらにせよ、

実質は、人質ということで、

朝日姫(あさひ)の心中は

いかばかりだったかと、

考えました。

 

私は、大河ドラマ「どうする家康」

の時に、明るくポジティブに

振舞おうとするあさひ姫の姿が

描かれていたことを思い出し、

胸が痛くなりました。

 

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朝日姫(あさひ)の夫は2人?前の夫との離婚理由は?

朝日姫(あさひ)の夫については、

「結婚して夫がいたのに、

秀吉の命令で、無理やり離縁させ

られ、家康の妻となった。」

というのが、よく知られている

ようですが、

朝日姫の前夫については、

幾つかの説があるそうです。

 

1 最初の夫は尾張中村の農夫で、

嘉助または源助だが、

死別し、兄秀吉のはからいで、

佐治日向守と再婚した。

 

2 最初の夫嘉助または源助が、

農夫から武士に上げてもらって、

名も改めた。(佐治日向守)

 

3 佐治日向守と死別し、

副田(そえだ)甚兵衛(吉成)と

再婚した。

 

朝日姫(あさひ)が前の夫と離婚した理由は?

離婚の理由と時期については、

諸説あるようです。

 

興味深いのは、

黒田基樹氏(大河ドラマ豊臣兄弟!

時代考証担当)が、著書「羽柴秀吉と

その一族」の中で、

朝日と副田が離婚したのは、

本能寺の変の後ではないかと、

説かれています。

 

本能寺の変は、天正10年(1582年)

ですので、朝日姫は通説よりは何年も

前に、すでに前夫と離婚していた

ことになります。

 

だとすると、朝日姫は独身に戻って

いたので、

家康の方から正妻に迎えたいと

申し出たという説とも

辻褄があうような気がします。

(・・ただ、
大河ドラマファンとしては、
これだとちょっと悲劇の割合が
薄まるような、、、
姫、ごめんなさいね、、、。)

 

ちなみに、黒田基樹氏は著書

「羽柴秀吉とその一族」の中で

柴裕之氏が説かれているように

家康から、とされています。

 

朝日を妻にすることで、

家康は秀吉の義理の弟に。

また、秀忠からみて新しい母上

を迎えたということになりました。

 

これにより、徳川秀忠は、

天下人・秀吉の義理の甥と

いう立場になれたわけです。

後に、豊臣・羽柴政権の

一族として、

秀忠は相当高い身分・官位

(従三位・権大納言)

にまで昇り詰めることが

かなったようです。

 

(私はこれを知って、さすが、
神君家康公は、先の先まで
読んでおられると、
感服しました。)

 

ところで、朝日姫と前夫との離婚、

その理由はなんだったのか

『武家事紀』という史料によると、

副田甚兵衛が、但馬多伊城の守備を

務めていたが、一揆の攻撃を受け、

その城を失うという失態により、

秀吉の怒りに触れたようで、

朝日と別れさせられた

らしいです。

 

(個人的な感想ですが、
上に立つ人としては、
下の者の失敗を許す度量を
期待したいところですが、
戦国時代だけに、
そんな悠長には待てなかった
ということでしょうか。)

 

どうやら、いずれにしても、

兄・天下人・秀吉の意向による

離婚のようですね。

 

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朝日姫(あさひ)の死因やお墓は?

天正18年(1590年)

正月の月半ば、(14日)

朝日姫は旅立たれました。

行年は48歳だったそうです。

 

朝日姫の死因は、気うつ、

ノイローゼ と伝えられて

いるようです。

 

なぜ、気うつになったのか、

それまでの状況をたどってみます。

 

朝日姫の輿入れ後、母・大政所 が、

面会に訪ねてきて

三河岡崎城で母娘が再開したそうです。

 

(・・私には、姫は心強くも、
老齢の母まで巻き込んだ兄に対して
心中穏やかではなかったろうと、
思料されます。)

 

朝日姫を妻にし秀吉の臣下になる

ことを承知した家康でしたが、

なかなか挨拶に来ない

(上洛・出仕しない)、そこで、

秀吉は切り札として、追加で

母・大政所を差し向けたのでした。

 

ようやく家康は京へ。

その間、人質となった二人の居所

の周囲には、家康の家臣によって、

薪の束が積まれていたと、

伝わっているそうです。

 

家康に万が一のことがあれば、

火をつけるぞ

大政所と朝日姫・駿河御前の

心中は、いかばかりか、

察するに余りあります。

 

(私は、家康の家臣団は、
殿を護るという心意気が
半端じゃなかったと、
思います。
だから、行動も圧も強すぎて
姫も耐え難い状況だった
だろうな、
普通のメンタルではいられない
だろうなと、
お察しします。)

 

家康の出仕が完了し、交代で、

大政所は京へ帰られました。

 

(個人的な感想ですが、
この別れ際の母娘の胸中を
想像すると、せつないですね。)

 

2年後の天正十六年六月、

母・大政所が危篤との報を受け、

朝日姫はいそいで、

母の元に駆け付け、

看護をしました。

 

(私には、この時の彼女は、
ようやく駿府を離れられる
口実ができた、と思っていた
のではと思料されます。)

朝日の看護の甲斐あって、

大政所の病は全快しましたが、

となると、朝日は駿河に帰って

また人質にもどらねばならない、

との思いから、

気うつとなってノイローゼになり、

母が付き添ってくれるなかで、

聚楽第でご臨終を迎えらえた、

と伝わっているそうです。

 

(私は、朝日姫が旅立つとき
母がそばにいてくれたことが、
せめてもの救いだったなと、
ただ、愛娘を先に送ることとなった
母・大政所のお気持ちを考えると、
なんとも複雑です。)

 

法名「南明院殿」(なんみょういん)

 

全くの個人の印象ですが、
『明』という漢字が選ばれたことで、
南明院殿のお人柄がしのばれます。

 

朝日姫の墓所は、京都市の

東福寺・南明院

あるそうです。

 

入口には、『徳川家康公正室旭姫墓』という

石碑もあるようです。

 

なお、朝日姫の墓がある南明院を

建立したのは徳川家康である

という説も、あるそうです。

 

また、もう一か所、

静岡市の瑞龍寺にも、

朝日姫の供養塔が

建てられたそうです。

 

瑞龍寺のホームページなどから、

・家康が南明院から分骨して、

瑞龍寺に墓を建てた、

姫に対する誠意を秀吉にも

示すため。

・秀吉が墓を建てた説もあり。

 

私は調査してみて、
双方の側から、
それぞれに記録・伝承
されていると知りました。

歴史は、視点が変わると
見解も変わる点が、
何とも興味深いです。

 

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朝日姫(あさひ)の子供や子孫は?

あさひ姫に、子供がいたという

記録は確認されてないようです。

そのため、

直系で血のつながった子孫は、

いないのではと、

されているようです。

 

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まとめ

・朝日姫の嫁入りは、
秀吉から言い出した説、
家康から望んだ説、あり、
家康は誠意をもって接して
いた様子

・朝日姫と前の夫が離縁させられた
時期は、もっと前だった説あり

・姫の死因は気うつ・ノイローゼ
お墓は京の東福寺の南明院、
なお、静岡市の瑞龍寺にもあり

・朝日姫には子供がなく、
直系の子孫はいない

 

私は今回、家康にも思惑が

あったこと、初めて知りました。

 

大河ドラマ「豊臣兄弟!」、

待ち遠しいです。

 

 

 

 

 

主な参考文献

:羽柴秀吉とその一族 ・黒田基樹 角川選書

:別冊歴史読本 太閤秀吉と豊臣一族 ・新人物往来社

:徳川家康の最新研究 ・黒田基樹 朝日新書

:図説 豊臣秀長 ・河内将芳 著 戎光祥出版

:曹洞宗 泰雲山 瑞雲寺 公式ホームページ

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