松平定信は、江戸時代の中頃に老中となり、
寛政の改革を行ったことで
知られています。
2025年NHK大河ドラマ
「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」にも登場、
改革に邁進する姿と苦悩を、
井上祐貴さんが熱演中です。
この記事では、松平定信について、
いつ死去?死因は?お墓はどこにあるのか、
子孫の現在、評価はどうだったのか、
調べてまとめました。
松平定信いつ死去?死因は?
松平定信(まつだいらさだのぶ)が
死去されたのは、
文政12年5月13日です。
(西暦1829年の6月14日)
死去された時は、
満70歳でした。
(生まれたのは宝暦8年12月27日
西暦だと1759年1月25日)
松平定信の死因は、
風邪をこじらせたものではと、
伝わっているようです。
また、『楽翁公伝』※には、
(※楽翁とは松平定信の隠退後の雅号。
※『楽翁公伝』は、渋沢栄一が、
尊敬する松平定信の伝記を
書いたもの。)
十二年の春に至り、病を獲て臥床の身、
三月には火事が迫り、横臥のまま駕籠で避難。
病床でも、筆硯で和歌を作り、
五月 十三日申の刻(午後四時)卒去せられた、そうです。
辞世の和歌は、
『今更に何かうらみむうき事も
楽しきこともみはてつる身は』
渋沢栄一は、
松平定信の辞世の和歌について
『天寿を全うして
安らかに永眠せる
大往生の有様を
彷彿たらしむるものあり』
と記しています。
私は、松平定信が満70歳まで
天寿を全うされたと知って、
当時としては長生きされたと
思いました。
松平定信のお墓はどこに?
松平定信のお墓は、霊巌寺にあり、
霊巌寺(れいがんじ)の現在の住所は、
東京都江東区白河1丁目 です。
地名は、白河藩の藩主だった松平定信の
お墓が霊巌寺にあることから、
ついた地名だそうです。
なお、霊巌寺は始め霊巌島に在ったが、
その後、明暦の大火で、
深川の地に遷されたそうです。
また、松平定信の法諡は、
『守國院殿崇蓮社天譽保德樂翁大居士』、(※社も旧字体)
墓碑には、『故白河城主樂翁公之墓』と
しるされているそうです。
私が写真で松平定信のお墓を
見たら、墓碑の文字、
(一部は門に隠れて、)
読み取ることができました。
松平定信、子孫の現在は?
松平定信の子孫、家督を継いだ方々を順に追ってみますと、
松平定信
↓
松平定永(さだなが)
↓
松平完和(さだかず)
↓
松平定猷(さだみち)
↓
娘・初子の婿養子・松平定敬(さだあき)
※定猷の長男・定教(さだのり)は
幼く、また側室の子だったため、
正室の子である娘・初子の婿養子・
松平定敬(さだあき)
(父は高須藩主の松平義建)
(「高須四兄弟」の末弟)
に継がせます。
そして、定教は、初子と定敬夫妻の養子に
なり、次に家督を継ぎました。
↓
松平定教(さだのり)
↓
娘・栄子の婿養子・松平定晴(さだはる)
※松平定晴は、
定敬と側室との間に生まれ、
定教の娘・栄子の婿養子となり
家督を継ぎました。
↓
松平定光 氏 ※
↓
松平定純 氏
↓
松平華子 氏 ※※
※松平定光 氏は、
松平定信が子孫の為に書いた自叙伝、
『宇下人言』(うげのひとこと)の出版を決意され、
校訂をおこない、
岩波文庫から発刊される際には、
解題を書かれています。
原本は箱に収められ厳重に封緘されて
いて、代々の子孫は神聖なものとして
封緘には手を触れなかったそうです。
明治の頃、
定光氏の祖父・定教氏の代の時、
自然に封が解けたのを発見、
書かれている中身がわかったものの、
公にするのは憚られたそうです。
昭和になり、
昭和3年5月13日が、
松平定信の没後百年、
百年祭にあたり、
定光氏の父(定晴氏)が
発表を決意、印刷頒布。
そして、昭和17年に、
『宇下人言』(うげのひとこと)が
出版されました。
※※松平華子氏は、
白河市教育委員会主催の
松平家に関連する特別企画展が
2016年に開催された際には、
松平定信公のご子孫として
招かれたそうです。
(当時、出席された白河市議の
ブログより)
私は、子孫のための『宇下人言』を
世に向けて出版される決意をされるあたり、
その胸中を想像し、感慨深かったです。
また、激動の幕末~明治維新を
生き抜いて、
現代まで続いて、ご子孫の方が、
白河市の方々から大切にされ、
交流が続いておられることを、
初めて知りました。
松平定信、評価はどうだった?
松平定信の評価はどうだったでしょうか。
少年期から、白河藩主、老中、さらにその後まで
調べてみたら、意外な一面が見えてきました。
少年期の評価:将軍候補
徳川吉宗の孫として、
御三卿のひとつ、田安家に
生まれた松平定信。
幼少期の名前は、
賢丸(まさまる)で、
その名の通り賢くて、
次の将軍候補に一番近い
とまで評価されていました。
しかし、
白河藩(今の福島県)に
養子に出されました。
これは、
「徳川から養子を迎えて家格を上げたい!!」
という白河藩主・松平定邦の希望を、
老中 田沼意次が、
(実は、さらにその裏で一橋治済が、)
巧みに利用して、
将軍 徳川家治から賢丸に命じられるよう
にしたのではないか、
と見られているようです。
白河藩主としての評価:名君
松平定信が白河藩主の養子になったあと、
浅間山の噴火や、飢饉が相次ぎました。
(天明の大飢饉)
東北諸藩では餓死者も多数出る中、
松平定信が白河藩主に対策を助言し、
うまく米が領民に行き届くようにしたので、
白河藩ではひとりの餓死者も
出さなかったそうです。
飢饉のさなかに家督を継いだ松平定信は、
さらに藩の財政を立て直します。
その手腕に、近隣の他の藩主から、
是非見習いたいという書状まで届いた
とも、伝わるそうです。
老中時代:厳しい政治改革で人々の反感を買う
白河藩主としての功績から、
30歳の若さで、老中主座(老中のトップ)に
就いた松平定信は、
祖父である徳川吉宗を見習い、
質素・倹約をすすめる「寛政の改革」を
約6年間、行います。
・都市に出てきた農民を村に帰す。
・贅沢を禁じ倹約を命ずる。
・武士の借金を帳消しや軽減する。
・政治批判を禁じ、出版を厳しく取り締まる。
・朱子学を重んじ、異学を禁ずる。
などの政策で、人々に反感を持たれました。
締め付けが強いうえに、あまり成果が
上がらなかったともいわれています。
また、質素倹約を、江戸城大奥にまで求めた
ことなどから、
贅沢好きな一橋治済(将軍家斉の実父)からも
次第に煙たがられることとなり、当然、
将軍家斉との関係性にも影響が出てきます。
結局、1793年(寛政5年)、
松平定信は、老中の地位から退きました。
松平定信の寛政の改革は、前任の
田沼意次の経済重視の政策を、
ことごとくひっくり返したとも
言われてきましたが、
近年の研究では、
継承した部分もあったとも
されるようです。
先見の明、身分の垣根のない公園を造った
老中を退いたのちは、白河藩主として、
領民のために「南湖公園」を造りました。
現代でこそ、公園といえば、
誰でも自由に散策を楽しめる
憩いの場所ですが、
当時、大名が造る庭園といえば、
大名屋敷の敷地内で、
自分達だけが楽しむための庭でした。
そんな時代に松平定信は、
柵を設けず、
身分の上下に関係なく、
誰でも入れる庭園を造ったのです。
NHKの歴史探偵で大河ドラマべらぼうとのコラボで、
歌舞伎俳優の中村隼人さんやアナウンサーが、
(中村隼人さんは
大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」で
松平定信の指示で人足寄せ場を作った
長谷川平蔵宣以 を演じています。)
南湖公園の魅力や、
名物・団子を紹介されて
いました。
特に、公園内に定信が建てた
「共楽亭」(きょうらくてい)という
茶室は、一般的な茶室よりも4倍も広く、
8畳2間あり、
南湖の眺めを楽しみながら、
普通の人が疲れたら、休める茶室として
考えられた建物でした。
南湖に込めた思いを、
松平定信が詠んだ和歌も
紹介されました。
『山水の 高きひききも
隔てなく
共に たのしき 円ゐ すらしも』
やまみずの たかきひききも
へだてなく
ともに たのしき まどい すらしも
身分の上下分け隔てなく
共に楽しく語り合おう という
気持ちが込められていますね。
中村隼人さんも、松平定信について
本当に民衆を思って、風流を重んじる人だったと、
見方が180度変わったと、
感想を話されていました。
文化人としての評価、自画像も描いた
松平定信は、和歌、書、茶道にも秀でていたそうです。
いざというときの徳川将軍候補として、
定信は、幼少期から、
一流の師による教育を受けました。
絵画の腕前もかなりのものでした。
自画像として伝わる肖像画の中には、
松平定信自身が描いた自画像もあるそうです。
絵画まで素晴らしい腕前だったのですね。
文学好き、推しは源氏物語!!自らも執筆
一方で、文学好きとしても知られ、
殊に、源氏物語は繰り返し読み、
全巻の写本もしたそうです。
NHKの番組で、写本の実物を拝見しましたら、
小さい豆本に製本され、きちんと入れ物も
造ってありました。
解説では、おそらく松平定信は、
主人公の光源氏と自分の運命を
重ねていたのではないかと。
将軍候補と目されながら
養子に出されてしまったという立場など、
共通点を感じていたのでは、とのことでした。
ちなみに、松平定信は、その生涯で、
源氏物語全巻を、
7回も写本しているそうです。
(定信の著書「修行録」の中に書いているそうです。)
また、源氏物語についての日記も記して
いたそうです。
日記の中には、
「もうすぐ写本を全巻写し終えてしまうのが
名残惜しいので、いったん止めて、
他の徒然草を書き写すことにする」
というような、記録もあるそうです。
もうこれは、源氏物語への愛!!ですね。
また、定信は、他にも、
「伊勢物語」も推しだったようです。
伊勢物語は、在原業平(ありわらのなりひら)を
思わせるプレイボーイの恋愛物語で、
たくさんの和歌が出てきます。
定信は、これらの和歌の「かるた」を作り、
楽しんだそうです。
恋愛物語を愛読していたとは、
松平定信の印象(真面目そう)とは
かけ離れているような。
ご本人も、照れ隠しなのか、
伊勢物語の写本には、
年老いても眼鏡なしで細かい字が見えるから
写本をする、というようなことが、
書かれているそうです。
著作も数多く、
中には、まるで小説・黄表紙のような、
創作もの
(ストーリーは、
お殿様のちょっと困った振る舞いに
家臣が振り回されるお話)
も書いたそうです。
表の顔では、政治改革で出版を厳しく取り締まり、
当時繁盛していた人気地本問屋の耕書堂・
蔦屋重三郎も、身上半減の刑としましたが、
実際の松平定信自身は、
こころから文学を愛し、
創作もする方だったようです。
まとめ
・松平定信が死去されたのは、
文政12年5月13日。
西暦1829年の6月14日
満70歳。
風邪をこじらしたのがきっかけか。
天寿を全うされた。
・松平定信のお墓があるのは、
霊巌寺(東京都江東区白河)、
渋沢栄一が松平定信の伝記をまとめ、
その中に墓碑も記載されている。
・松平定信の子孫は、自叙伝を受け継ぎ伝え
出版した。子孫は現在まで続いている。
・松平定信の評価は、少年期から高評価だった。
寛政の改革は厳しさゆえに人々の反感を買ったが、
白河藩主としての名君ぶりや、文化人としての意外な一面があった。
私は、2025の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では、
一橋治済(演:生田斗真さん)と
松平定信(演:井上祐貴さん)の場面に
特に注目しましたが、
いつか、主人公が松平定信の
大河ドラマを観られたらいいなと
感じました。
主な参考文献など
:宇下人言(うげのひとこと)・修行録 著者 松平定信 校訂 松平定光 岩波文庫
:楽翁公伝(らくおうこうでん)著者 渋沢栄一 国立国会図書館デジタルコレクション
:日本の歴史人物100 監修 隂山英男 リベラル社
:NHK歴史探偵 べらぼうコラボスペシャル 田沼意次 VS. 松平定信 2025.8.20放映

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