大田南畝は、江戸時代に活躍した方です。2025NHK大河ドラマ
『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』にも第20回から登場、
演じているのは桐谷健太さんです。視聴者からは、面白い人が出てきた~!と
注目されました。
そこで、大田南畝とは何をした人か、
表の顔と別名、
狂歌の代表作や、多才ぶり、妻や家族、
子孫、辞世の句や墓、
蔦屋重三郎との関係について、
調べてみました。
大田南畝とは?表の顔と別名は?
大田 南畝(おおた なんぽ)は江戸時代後期の御家人です。
生年は寛延2年3月3日(1749年4月19日)- 文政6年4月6日(1823年5月16日)です。
表の顔の南畝は、御徒歩職として、幕府に仕えました。
年を取っても勤め続けたようです。
それと同時に、江戸時代後期を代表する文人・狂歌師でもあります。
広く交遊をもち、天明調狂歌の基礎を作りました。
狂歌とは、社会風刺や皮肉、滑稽を盛り込み、五・七・五・七・七の音で構成したパロディ形式の短歌です。
狂歌名「四方赤良」(よものあから)や狂詩名「寝惚先生」(ねぼけせんせい)など、様々な筆名を持っていました。
なお、後年、戯作や狂歌から距離を置いてからは、「蜀山人」(しょくさんじん)という号を用いていたそうです。
他にも玉川漁翁、石楠齋、杏花園、遠櫻主人、巴人亭、風鈴山人といった別名があります。
昼は表の顔で、仕事を有能ぶりを発揮し、
夜は多くの教養ある仲間たちと本気で遊ぶ粋な知識人。
私は、調べてみて、現代でも、仕事ができて趣味や遊びも超一流という人いるなぁと、思いました。
大田南畝の狂歌の代表作は? 別名からわかる多才ぶりとは?
大田南畝の狂歌の代表作は?
四方赤良(よものあから)(大田南畝)の狂歌の代表作を、
岩波書店・新 日本古典文学大系84 収蔵 「狂歌才蔵集」から
ご紹介します。
生酔(なまゑひ)の礼者(れいじゃ)をみれば
大道を横すぢかひに春はきにけり
※礼者 とは、年始回りをする人
※大道をよこすぢかひ の箇所は、
唐詩選の「大道直如髪、春日佳気多」を踏まえているのでは、とのことです。
※振る舞い酒に酔った礼者がふらふらと大道を斜めに突っ切って行く、
その足取りとともに春がやってきた。
四方赤良の代表作の一つで、天明狂歌の中でも最も名高い一首だそうです。
私は、これを読んで、狂歌というのは元となる教養があって
理解できる、ということを実感しました。
大田南畝は、教養ある人物で、教養に基づく遊びとしての狂歌を
造り上げた一人なのだな、と思いました。
大河ドラマを観ていたら、狂歌で有名になっても、
飾らない明るい人柄でファンを喜ばせる四方赤良として、
描かれていました。
大田南畝、別名からわかる多才ぶりとは?
・大田南畝の最初の本、『寝惚先生文集初編』は、
大田南畝が19歳の年に出版されました。
平賀源内が序を書いていることでも有名な本です。
ちなみに、出版のきっかけは、
平秩東作が大田南畝の才能に驚いて、
版元も紹介したらしいです。
(平秩東作が、自身の『莘野茗談』の中で,経緯を振り返り記しているそうです。)
参考情報
寝惚先生文集 狂歌才蔵集 四方のあか
新 日本古典文学大系84 岩波書店
・『万載狂歌集』(まんざいきょうかしゅう)は、江戸時代の狂歌集です。
天明3年(1783年)正月に刊行されました。
232人が詠んだ748首をまとめた、17巻となっています。
編集者は四方赤良(大田南畝)と朱楽菅江で、須原屋から出版されました。
本の名前の由来は千載和歌集をもじったもので、部立も千載和歌集にならっています。
『千載和歌集』は、平安時代末期に編纂された勅撰和歌集です。
この狂歌集が以後の江戸狂歌の隆盛をまねいたと言われています。
私も、初めて図書館で万載狂歌集を借りてみて、狂歌作品の数の多さと、裏付けとなってる教養の深さ広さに、驚きました。
万載狂歌集 上下
社会思想社 現代教養文庫
大田南畝の妻や家族、親族や子孫は?
大田南畝の妻は、利世という役人の娘です。
妾もいたそうです。身請け後は「お賤(しず)」と名乗らせたようです。
大田南畝の息子は定吉、
定吉の嫁はお冬、
二人の間に生まれた孫は鎌太郎
大田南畝の次女はお幸、
お幸と伊藤綱達との間の二人の娘は、
お富とお仲、大田南畝の孫にあたる
大田南畝の弟の金次郎は、島崎家の養子に
なり、御三卿のひとつ清水家に仕えていた。
大田南畝の長姉は、野村家に嫁入りした。
その息子(南畝の甥)は佐兵衛。
私は、大田南畝の紀行文で、家族や親せきに
出迎えてもらったところを読んで、愛され敬われる
おじいちゃんだったんだなと、思いました。
参考:壬戌紀行(じんじゅつきこう)
新 日本古典文学大系84 岩波書店
大田南畝の辞世の句は?墓はどこに?
大田南畝の辞世の句は、「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」それまで他人事だった死を、滑稽に表現しています。
私は、これを読んで、なるほどと思いました。
大田南畝の墓は東京都文京区白山の本念寺にあります。
お参りはお寺の人にお願いすれば可能なようです。
私は、お墓のことを調べながら、
大河ドラマで注目されたことを
大田南畝が知ったら、
草葉の陰で、どんな狂歌を詠んだかな、
と想像しました。
大田南畝と蔦屋重三郎との関係は?
大田南畝と交流を持った人物の1人に蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)がいます。
蔦屋重三郎は、江戸時代の中頃、版元という仕事をしていました。
その頃の戯作者や浮世絵師と進んで付き合いの輪を広げ、本や浮世絵などの作品を出したりしました。
企画のアイデアを出すのに優れ、また、作家とのつながりを大切に育て仕事した蔦屋重三郎。
彼の店、耕書堂の急成長ぶりは、市中の人々からも注目されていたようです。
大田南畝は、狂歌だけではなく、他の人の書物もよく読んでいて、どれが一番面白いかという、番付本も出していました。
現代風に言えば、ランキング本ですね。
その本で一番にあげられたのが、耕書堂からの出した朋誠堂喜三二の本だったのです。
このことをきっかけに蔦屋重三郎は大田南畝と知り合うことになったとされております。
企画のアイデアマンである蔦屋重三郎は、大田南畝から狂歌という世界を学ぶことから、その後、狂歌が流行ることを感じ取ると、狂歌に関連する書物を出したりします。
大田南畝のお近づきになると、さらに他の狂歌師も紹介してもらえたり、狂歌の席で顔見知りになったりします。
やがて、蔦屋重三郎も狂歌会を開いては、その場で詠まれた狂歌を本にしませんかと勧誘しました。
その中には、喜多川歌麿が見事な絵が挿絵の本もあり、狂歌師らは喜んで協力したようです。
狂歌は同好の士が集まって披露する、その場限りの文芸でしたが、これまで詠み捨てていた狂歌が歌集にまとまると狂歌好きは喜び、いっそう狂歌熱は高まりました。
蔦屋重三郎主催の狂歌会の様子を作家「恋川春町」(こいかわはるまち)が読み物にした、1784年(天明4年)刊行の「吉原大通会」(よしわらだいつうえ)の挿絵には大田南畝の姿があります。
また、大田南畝は、蔦屋重三郎のお墓の墓碑銘を寄せているそうです。
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