和泉式部のこと紫式部は日記に書いてた?二人の年齢、関係、性格の違いは?

和泉式部(いずみしきぶ)は平安時代中期の歌人です。

2024NHK大河ドラマ 光る君へ にも和泉式部が登場しました。

演じているのは泉 里香(いずみりか)さんです。

ドラマでは、吉高百合子さん演じる紫式部が

和泉式部を評価し、道長に推薦するような場面がありました。

そこで、

和泉式部のことを紫式部はどう思っていたのか、

日記に何か書いていたのか、

二人の年齢、関係、性格の違いなどを

調べてみました。

和泉式部はどんな人?

和泉式部は、生まれたのは978年頃?ではないか

とのことです。

父は大江雅致(おおえのまさむね)

母は介内侍(すけのないし)(平保衡のむすめ)

和泉式部は、平安時代中期の代表的歌人のひとり、

とされています。

当時最高の歌人のひとり、との紹介もみられました。

小倉百人一首には、和泉式部の

『あらざらむ この世のほかの 思ひ出に

いまひとたびの 逢ふこともがな』

という歌が選ばれています。

この歌は、重い病気で死を覚悟しながら、

恋しい人にもう一度だけ会いたい、との願いを

まっすぐに詠んだ歌です。

和泉式部は、想いを情熱的に表した歌を数多くのこして

おり、それだけ多くの恋に身をゆだねたのですね。

和泉式部の最初の結婚は、20歳前後で、

夫は橘道貞(たちばなのみちさだ)です。

夫の官名が和泉守だったので、和泉式部と呼ばれたそうです。

子供はひとり、女の子がいました。

(子供ものちに、小式部内侍という歌人となり、

百人一首に選ばれています。)

その後、和泉式部は冷泉天皇の皇子・為尊親王

(ためたかしんのう)と恋に落ちたそうです。

あまりに身分違いの恋で、夫とは別れ、

父親からも勘当されたようです。

その為尊親王が薨去されると、今度は御弟である

敦道親王(あつみちしんのう)から想いを寄せられ

ます。

この敦道親王との恋愛についてしるしたのが、

『和泉式部日記』とのことです。

ただ、敦道親王にも先立たれました。

その後、和泉式部は一条天皇の中宮彰子に

女房として使えます。

その後に、丹後守藤原保昌の妻となりました。

和泉式部が亡くなったのは、1048年頃?では

ないかとされているようです。

和泉式部の墓所といわれる場所や、ゆかりの地が、

全国にたくさんあるようです。

驚きました。

私は、百人一首で和泉式部の名前を知りましたが、

彼女の歌が情熱的で、多くの方の心を打ったと

いうことや、たくさんのゆかりの地で人々に

親しまれていたことを、今回初めて知りました。

和泉式部と紫式部はどんな関係?

和泉式部と紫式部は、手紙のやり取りをする仲

だったようです。

また、和泉式部も紫式部も、どちらも中宮彰子に

仕えていた女房ですね。

現代風に言えば、職場の同僚でしょうか。

ちなみに、どちらが先輩かというと、

和泉式部が中宮彰子に出仕したのは、

1008年から1011年頃のようです。

かたや、

紫式部は1006年頃から1012年頃

までのようなので、

このことから、紫式部の方が、先に勤め始めた

先輩だったと推測されます。

私の想像ですけど、後から出仕した和泉式部に

とっては、手紙のやり取りをした、顔見知りの

紫式部が先輩でいてくれて、多少なりとも

心強かったのではないでしょうか。

和泉式部と紫式部の年齢差は?

和泉式部が生まれたのは、978年頃?とされているようで、

一方の紫式部は、おおよそ970年から978年頃?の

生まれではないかとされているようです。

仮に、一番早い説であるとするならば、

紫式部のほうが和泉式部より

7歳から8歳くらい年上でしょうか。

もしも、一番遅い説であるならば、

和泉式部と紫式部は同い年だったかも

しれないですね。

私は思わず、「えー、同い年? 嬉しいです。」と

喜びをまっすぐに表す和泉式部の姿を、

空想してしまいました。

和泉式部と紫式部は日記を書いていた?

和泉式部は、『和泉式部日記』を書いていたのではないか

とされています。

この和泉式部日記は、日記物語とも称されるようで、

和泉式部と敦道親王との恋愛模様を、二人の歌のやり取りを

交えながら、物語のようにつづっています。

主語を、私ではなく女と記載し、

あえて第三者が書いたようにみせたのか、

はたまた、もしかしたら、別人が物語として

書いたのか、後世、いろんな説が考えられた

らしいです。

(書名も、和泉式部日記ではなく和泉式部物語と

する説もあるらしいです。)

私も、興味が沸いて、現代語訳の和泉式部日記を

読みましたら、想いを寄せ合う二人の、

心の揺れ動くさまがつづられていて、

後世、多くの読み手の心をとらえて離さないのが、

わかる気がしました。

かたや、

紫式部は、『紫式部日記』を書いています。

その中では、他者批評も書いていて、

和泉式部のことも書いているようです。

その書きぶりからは、和泉式部の歌は素晴らしいと

評価するものの、数々の恋愛遍歴のためか、

日ごろの行動に関しては、

「趣深い手紙のやり取りをした人だが、

素行はよくない」というように書いていて、

辛口な様子でした。

なお、紫式部日記による和泉式部の辛口批評が、

後世の人々の、和泉式部に対するイメージに

影響を与えたのではないか、とも考えられるらしいです。

和泉式部と紫式部の性格の違いは?

和泉式部の性格は、その歌からもわかるように、

情熱的でストレートな印象を受けます。

数々の出会いと別れの経験により、

歌人として自らを磨き上げたのでしょう。

一方、

紫式部については、子供時代はのびのび育ち

行動力もあったようです。漢文を聞いていたら

覚えてしまうほど頭も良かったようですね。

大河ドラマの中では、空想好きと

描かれていたように思います。

それが、大人になってからは、やや複雑な

感じに変わっていったようです。

それは、身近な人を亡くし(母、姉、夫)

世の無常を感じたり、幼い子を残して、

内裏で女房として勤めるなかで、

目立たぬよう、漢字の一という

字も知りません、というそぶりをしたりと、

気苦労が絶えなかった様子です。

そんな紫式部の性格も、あの複雑そうな源氏物語に

投影されているのではと、考えられたらしいです。

 

 

 

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