藤原彰子と一条天皇の仲や年齢差、子どもはいた?長生きした国母の生涯は?

藤原彰子は、平安時代の人物・藤原道長の娘で、

一条天皇の中宮です。

また、紫式部が女房としてお仕えした方でもあります。

大河ドラマ光る君へ では、

藤原彰子を見上 愛さんが演じています。

私も、ドラマの展開から目が離せないです。

そこで、

藤原彰子と一条天皇の仲や年齢差、

子どもや子孫は、死因、長生きして国母と呼ばれた

藤原彰子の生涯を調べてみました。

藤原彰子(中宮彰子)と一条天皇の関係、仲は良かった?

お二人はいとこ同士でしたが、初めて会ったのは、

入内が決まってからのようでした。

藤原彰子が入内した時、すでに一条天皇には

定子という中宮がいらして、

一途に定子を愛しておられたそうです。

ですが、一条天皇は「好文の賢皇」と呼ばれるほどの方なので、

道長の娘である彰子には、気を遣ったらしいですよ。

ある時などは、一条天皇が笛を吹きながら彰子に、

「こちらを見るように」とおっしゃいましたが、

彰子は「笛は聴くもの、見るものではございませぬ」と

お返事をされたとか。

お顔を見るのが、恥ずかしい年頃だったか、

はたまた、子どもが言いそうな、へりくつだったかも。

ところで、

道長は、一条天皇の中宮である定子を皇后にし、

自分の娘彰子を中宮にします。

中宮という呼び方は、実質的に皇后を意味していたそうで、

「一帝二后」と呼ばれる状態にしたのですね。

しかし、

定子が亡くなった後も、なかなか中宮彰子と一条天皇の間に

進展がないため、父道長は、何とか一条天皇のお心が

娘の中宮彰子に向くようにと、

当時、面白い物語を書くと評判になっていた

紫式部を、中宮彰子の女房にします。

そうして、源氏物語を書かせると、

一条天皇が物語に興味を示され、お渡りも増えたようです。

また、中宮藤原彰子は紫式部から漢詩を学び、

一条天皇のお心をわかるようになりたいと、

努力されます。

おそらくは、漢詩だけでなく、源氏物語に描かれる

男女の心の機微なども、紫式部から教えてもらった

ことでしょう。

そうして、実に、中宮彰子の入内から10年経って、

ようやく一条天皇との間に初めての子を授かりました。

私は、中宮彰子と一条天皇の関係を調べてみて、

彰子と仲良くされようとする一条天皇のお心は、

道長と協調し、良い政治を行い、民の安寧を

願うお心なのだと、感じ入りました。

藤原彰子(中宮彰子)と一条天皇との年齢差は?

お二人の年齢差は、8歳でした。

藤原彰子は12歳の時、20歳の一条天皇に入内しました。

当時、年齢は数え年。

生まれると1歳と数え、元日を迎えるとさらに1歳年を取ります。

(例えば、12月31日に生まれた子は数え1歳で、

翌日の元日を迎えると数え2歳です。)

満年齢なら、彰子は11歳か10歳で、

一条天皇は19歳か18歳でした。

しかも、一条天皇にはすでに定子との間に、

4歳になる娘がいたので、

彰子のことも、娘のように映ったと

「栄花物語」の中で伝えているようです。

大河ドラマ光る君へ では、一条天皇が藤原彰子に、

「こんな年寄りで悪いね」というような声をかける場面が

ありました。

私も、大人同士なら、8歳の年の差があっても

気にならないでしょうが、

十代の頃の8歳年下というのは、かなり幼く

感じられたのではと、思います。

藤原彰子(中宮彰子)と一条天皇の子孫は?

藤原彰子(中宮彰子)と一条天皇の子孫からも天皇が出ています。

まず、子ども2人が天皇になっています。

・敦成親王(あつひらしんのう)のちの後一条天皇・・娘2人

・敦良親王(あつながしんのう)のちの後朱雀天皇・・2男5女

孫の代では、

・後冷泉天皇

・後三条天皇

ひ孫の代では、

・白河天皇

さらにその先も、

・堀河天皇

・鳥羽天皇

と続き、さらに系譜をたどると、

(途中、親王をはさみますが)

この令和の、今上天皇までつながっているらしいです。

私は、初めて知って驚くと同時に、

一条天皇が、民のためにと、耐えておられたお姿や

誠実さが、千年の時を越えて、

今上天皇が、国民を思ってくださるお姿に、

受け継がれているような、そんな気がしました。

藤原彰子(中宮彰子)は長生き、死因は?

藤原彰子(中宮彰子)は、当時としては長生きでした。

承保元年(1074年)10月3日、

父が建立した法成寺阿弥陀堂内で、

87歳の天寿を全うしました。

実に、彼女のひ孫、白河天皇の御代になっていました。

死因については、「天寿を全う」のとおり、

天から授かった寿命をすべて使い、長生きして、

病気やケガによらず、旅立たれたのだと、

思います。

藤原彰子(中宮彰子)は、内裏を支えた国母!

国母は、天皇の生母。

長和5年(1016年)、藤原彰子の息子、

敦成親王が9歳で即位(後一条天皇)し、

彼女は名実共に、国母となりました。

天皇家を支え、摂関家を支え、見守り続けました。

一条天皇の死を乗り越え、彼女は強くなったのです。

父のいいなりだった娘は、父行き過ぎた行動を制する

ことができるまでに、成長しました。

彼女を一番成長させたのは、一条天皇でしょう。

一条天皇は、民の寒さを思い、寒い夜でも暖かい夜具を、

脱いでおられたそうです。その話を、藤原彰子は、

甥である関白師実(頼通の子)に伝え、

さらに関白師実は、その孫で関白の藤原忠実へ、

上東門院(彰子)の言葉として伝えた

そうです。

入内でも、出産でも、彰子の例が先例として、見習われて

いったそうです。

私は、今回、藤原彰子(中宮彰子)のことを、初めて詳しく知りました。

これほど努力され、成長され、尊敬され続けたと知って、

自分も、少しでも見習いたいと感じました。

大河ドラマの中で、成長していく彰子の姿が、

待ち遠しいです。

 

 

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