敦明親王の暴力事件とは?母や妻、子孫は?きよことの関係は?

敦明親王(あつあきら)は、三条天皇の息子さんです。

ちょうど道長の時代の人です。

NHK2024大河ドラマ 光る君へ では、

敦明親王の役を、阿佐辰美さんが演じています。

皇太子だったのに、自らその立場を降りたと

伝わる敦明親王について、

敦明親王の暴力事件とは? 母や妻は誰?

子孫はどうなった? きよことの関係は?

まとめてみました。

敦明親王の暴力事件とは?

優雅なイメージの平安貴族も、喧嘩となると

なかなか激しかったようです。

敦明親王も、たびたび暴力事件を起こしていたので、

その仕返しか、と思われる事件が1013年に

あったそうです。

それは、敦明親王の雑色長(ぞうしきおさ)

(身の回りの世話係)にあたる小野為明が、

貴族から集団暴行を受けたという事件です。

また、1023年には、

敦明親王の、賀茂祭で暴力事件が

伝わっているようです。

これは、従者を引き連れた敦明親王が

賀茂祭を見学していた人々に暴行を加えた

らしいです。

(参考:出来事と文化が同時にわかる平安時代

朝日新聞出版)

暴力事件は行動力の現れ、との見方もあるようで、

敦明親王は、内裏の火災の際に母を助け出したとも、

伝わるようです。

とはいえ、敦明親王、評判は芳しくなかったらしく、

藤原行成が権記に、

敦明親王はお顔の相が天皇にふさわしくないのでは、

というようなことを書き留めているそうです。

そのような敦明親王でも、皇太子になれたのは、

父三条天皇が、道長に負けじと、頑張ってくれた

おかげでした。

三条天皇(百人一首では三条院)自身は、皇太子として

実に26年余り待ってようやく天皇になれたものの、

道長から目の病を理由に譲位を迫られるようになります。

道長は、早く自分の二人の孫を、次の天皇と皇太子に、

したかったのです。

これに対し、三条天皇は、天皇の位は譲るが、

次の皇太子には敦明親王を立てよ、という交換条件を出し、

しぶしぶ道長は、後一条天皇の皇太子には、

敦明親王を立てました。

ただ、代々東宮が持つとされる品を道長が敦明親王に

渡そうとしなかったとか、

東宮職についた者達も道長の顔色を伺ってか、

敦明親王のために熱心に働く者がおらず、

東宮のお住まいが荒れていたとか、お気の毒な

状況だったらしいです。

年齢的にも、敦明親王は後一条天皇より

14歳も年上なので、次に自分が天皇になれるまで

いったい何十年待つのか、当時は平均寿命も

短かったようなので、そもそも無事でいられるか

などと、考えたかもしれません。

頼りとする三条上皇が崩御されると、

敦明親王は道長に、皇太子は辞する、その代わり

身分や暮らしを保証してね、と伝えたようです。

道長は、これで自分の目の黒いうちに、もう一人の孫を

皇太子に、ひいては次の天皇にもできると、

喜んだのでしょう。

なので、敦明親王には、小一条院という本来なら天皇経験者

だけに贈られる院がついた尊号が、道長から贈られた

ようです。

私は、敦明親王は、暴力事件を起こすだけに、決めて行動する力

がすごいな、名を捨てて実を取ったんだな、と思いました。

敦明親王の母は?

敦明親王の母の名前は、藤原娍子(すけこ)といいます。

NHK2024大河ドラマ 光る君へ では、

藤原娍子(すけこ)を 朝倉あき さんが演じています。

敦明親王の母すけこは、伝統楽器の箏(こと)の演奏にも

優れていて、美人の評判も高く、花山天皇にも見初められ

入内の話まであったらしいですが、すけこの父、藤原済時が

断ったようです。

結局、東宮だった三条天皇の元へ入内したすけこ、

夫婦仲は良かったようです。

敦明親王以下、4男2女を授かりました。

父三条天皇は、即位後、敦明親王の母すけこを皇后に
上げようと頑張りました。
ただ、その祝いの席は、道長に遠慮した公卿たちが
軒並み欠席、寂しい祝いとなったそうです。
なぜかというと、道長は、三条天皇の元に、
娘妍子(きよこ)を入内させており、その
きよこを女御に上げる日を、わざと皇后すけこ
の祝いの日と同日にさせ、公卿たちを試し、
三条天皇にも道長の力を示したようです。
私は、敦明親王もきっと母すけこに、左大臣(道長)
のやり方はあんまりです!!などと言って、お慰め
したのかなあと、想像しました。

敦明親王、妻は誰?

敦明親王の妻は、6人程、確認されているようです。

その中で、二人の妻にまつわるエピソードをご紹介します。

まずは、敦明親王の妻、藤原延子(のぶこ)です。

藤原顕光の娘だそうです。

子供も3人いたそうです。

ただ、敦明親王はのちにもう一人の妻、藤原寛子(ひろこ)

(道長の娘)をめとることになります。

敦明親王(小一条院)が皇太子を辞退されたおかげで、

道長の孫が皇太子になれて、いわば、次期天皇の座が

約束されたことになりました。

そのお礼ということもあったのか、道長と妾妻源明子との

間の娘ひろこを、敦明親王の妻にしたのです。

当時は結婚すると、妻の屋敷に入って生活したので、

敦明親王は寛子の家・高松殿に移りました。

さあ、そうなると、最初の妻・藤原延子のぶこと3人の子どもは

おいてけぼりの状態になり、悲しみにくれました。

のぶこの父顕光も怒ったそうです。

父顕光が亡くなり、敦明親王(小一条院)の妻のぶこも、

失意のうちに体調を崩し、若くして亡くなったそうです。

そして、顕光とのぶこの怨霊が、のちに道長の娘ひろこを

祟ったと、栄花物語では伝えているらしいです。

私は、せめて、敦明親王の想いだけは妻のぶこの元に

あって、実はこっそり援助していたとか、であれば、

敦明親王かっこいいけれど、などと勝手に想像を

膨らませてしまいました。

敦明親王、子孫はどうなった?

敦明親王の子孫をたどってみたら、南北朝時代の方や、

天皇家とのつながりがみえてきました。

敦明親王の6人の妻の中には、藤原頼宗の娘(院の上)が

いたそうです。

この二人の子ども(敦明親王 子孫1代目)が、源基平

もとひら だそうです。さらに、

2代目:源季宗 すえむね

3代目:源季宗の娘

4代目:藤原忠基 ただもと(難波家)

5代目:藤原教宗

6代目:藤原基保

7代目:藤原範保 のりやす

8代目:藤原光保(左馬助)

9代目:藤原兼子

敦明親王、子孫9代目の藤原兼子は、下級貴族ながら

西園寺公衡 きんひら に嫁ぎます。

そして、その娘、

10代目:西園寺寧子(ねいし・やすこ)(広義門院)は、

後伏見天皇の女御となり、実子二人が、南北朝時代の

北朝の天皇になったそうです。

(子孫11代目:光厳天皇、光明天皇)

北朝は、歴史上の有名人・足利尊氏に支持されていました。

寧子ねいし・やすこ は、国母(こくも)と呼ばれ、実際

請われて、かなり実務的なところまで天皇に代わって、

担ったらしいです。

(治天の君 というらしいです。)

なお、敦明親王の子孫、12代目以降も天皇や親王が続き、

34~35代目くらいが、令和の今上天皇らしいです。

私は、南北朝時代の西園寺寧子という名前を、初めて知って、

すごい女性がいたんだなと思い、また、子孫が天皇家と再び

つながれたんだな、敦明親王や母や妻の無念を、いくらかでも

晴らしてくれたのかな、と思いました。

敦明親王、きよことの関係は?

敦明親王からみると、藤原道長の娘妍子(きよこ)は、

父三条天皇の女御ですので、義理の母上のような方かと

思います。

年齢は近かったようですので、きよこは敦明親王に、

親近感を抱いていたかもしれないですね。

ただ、それ以上の特別な関係は、無かったのではないかなと、

思われます。

(もしもあったとしたら、この時代のどなたかの日記に

書かれそうな気もしますので。)

NHK2024大河ドラマ 光る君へ では、敦明親王にきよこが

ぐっと近づく場面があり、敦明親王の母すけこが息子を制して

いました。源氏物語の影響なのかどうか、過敏なまでの反応の

ようにみえました。

私は、きよこにとって、敦明親王と話すのは癒しだったんだろうな

と、想像しました。

 

 

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