敦康親王のかわいそうな生涯と死因は?光源氏のモデル、彰子との関係は?

敦康親王は、NHK2024大河ドラマ光る君への登場人物です。

成長した敦康親王を演じるのは、歌舞伎役者の片岡千之助さんです。

私も楽しみです。

敦康親王は一条天皇の長男で、

幼い頃、母である皇后定子が亡くなり、

中宮彰子の元で養育されました。

敦康親王は光源氏のモデルなのか、その生涯や死因、

彰子との関係、子供や子孫を調べてみました。

敦康親王が光源氏なの?

敦康親王の父である一条天皇の時代に、源氏物語が生まれました。

物語は内裏を舞台に始まり、ドラマチックです。

描かれている人物にモデルがいるのでは、

と興味が沸くのも自然ですよね。

主人公の父である帝が、母一人を一途に愛しておられた点や、

幼いうちに母を亡くし、義母にあたる女性に育てられた点など、

敦康親王の生い立ちによく似ています。

大河ドラマ光る君への中にも、一条天皇が紫式部に

「光る君とは、敦康か?」とお尋ねになられる場面があり、

これに対し紫式部は

「内緒にございます。」と答えていました。

本当の所は、紫式部のみぞ知る、でしょうか。

敦康親王と彰子との関係は?

敦康親王から見ると、彰子は継母、育ての親ですね。

敦康親王はが6歳の時に、藤原道長の指示により、

17歳の彰子の元で養育されることになります。

彰子は、幼い敦康親王を大切に育てました。

敦康親王も母親代わりの彰子を慕い、仲良く暮らしたようです。

藤原道長は、娘彰子が男の子を産み、

いずれは自身が天皇の外戚となることを期待していましたが、

一条天皇と彰子の間には、なかなか子どもが授かりませんでした。

そこで、敦康親王を彰子の元に引き取り、道長の庇護のもと、

孫のように育てることで、将来彰子が親王を産めなかったときの

代わりにしようとしたのですね。

また、敦康親王がいることで、一条天皇のお渡りが増え、

そのお心が彰子の方へ向いてくれるようにという目的も

あったようです。

確かに、一条天皇にしてみれば、愛する定子との間に

授かった初めての親王です。

定子が遺した我が子を愛おしく思うお気持ちは、

いかばかりでしょう。

私は、彰子はきっと一条天皇のお気持ちがわかって、

敦康親王を大切に育てられたのではないかと、思います。

では、敦康親王と彰子との間に、

光源氏と藤壺のような恋愛感情的なものがあったのでしょうか。

これについては、そこまでの感情はなかったようです。

ただ、大切に育てられた分、母のように慕う気持ちは

きっと強かったのではないかと、私は思います。

敦康親王がかわいそう、その生涯とは?

敦康親王の生涯を見ていくと、とても悲劇的な要素があります。

敦康親王のプロフィールを見ていきましょう。

父:一条天皇(円融天皇の第一皇子、藤原兼家の娘詮子の息子)

母:定子 (藤原兼家の孫、藤原道隆の娘)

生まれた日:長宝元年(999)11月7日

生まれた場所:竹三條宮(中宮大進平生昌の邸)

実は、当時、藤原道長は、定子が親王を産む前に、

なんとか自分の娘彰子を、一条天皇に入内させようとしていました。

11月1日に彰子を入内させ、

同7日に女御宣旨(にょうごせんじ)が下され、

その夜、初めて一条天皇の訪問を受けることになっていました。

すると、あろうことか、同じ日に敦康親王が生まれたのです。

一条天皇は、待望の親王の誕生に喜んだことでしょうが、

定子のところではなく彰子の元へ行かなければなりませんでした。

一条天皇は藤原行成を呼び出し、

子が生まれたときの祝宴「産養い(うぶやしない)」の

準備を命じました。

長保2年(1000):母定子が死去

敦康親王は母定子の妹の所で育てられます。

一条天皇がそこへお通いになるうちに、

亡き定子に似ていらしたのか、

やがて一条天皇と定子の妹との仲が知られるところとなり、

藤原道長は、敦康親王を彰子のもとへ引き取ることにしました。

寛弘2年(1005)の冬、敦康親王「読書始め」の儀が

晴れやかに行われました。

「読書始め」とは、皇族や貴族の子弟が、孝経などの漢文の

読み方を授けられる儀式です。

一条天皇も密かに臨席されたそうです。

漢文は、一条天皇も亡き定子も共に親しんだ教養でしたので、

その漢文を敦康親王が学び始めた、と特別な思いで見守られた

ことでしょう。

実際、両親に似て、敦康親王は学問を好み、学才もあったそうです。

寛弘5年(1008)~寛弘6年(1009)にかけて、

彰子は、年子で親王を出産します。

(この年子の親王が、後の後一条天皇と、後朱雀天皇です。)

これで、藤原道長にとっては、敦康親王は邪魔な存在となったのです。

寛弘7年(1010)7月17日、敦康親王 元服の儀式

「みずら」に結んだ髪を解き、髷に結い上げ、初めて冠をかぶりました。

初冠(ういこうぶり)を授ける役は藤原道長が務めました。

儀式の後、敦康親王は彰子の御前に挨拶に来ました。

彰子は剣と横笛を贈ったそうです。

寛弘8年(1011)5月 一条天皇がご病気に。

一条天皇は譲位をお考えになり、

敦康親王を立太子(皇位継承者)にできないかと、

藤原行成に相談しますが、結局、断念されました。

敦康親王には、代わりに破格の配慮をと、

年官年爵や年給の受領を賜い、家令を置くことと

したそうです。

彰子は、一条天皇と敦康親王のお気持ちを思って、

父道長をうらんだそうです。

また、敦康親王を東宮に立てるよう、彰子が父道長に

直接、申し入れたとの伝えもあるようです。

一条天皇は、寛弘8年(1011)6月に、従兄にあたる

東宮居貞親王(おきさだしんのう)(三条天皇)に譲位、

同月22日に、32歳で、崩御されました。

その後の敦康親王は、自分のやしきで、作文会、歌合、

法華八講を主催し、川で遊覧するなど、風雅の道に

生きたそうです。

長和2年(1013)には、

具平親王の次女(藤原頼通の正室の妹)と結婚し、

女の子(嫄子げんし女王)が生まれました。

敦康親王の死因が気になる、その後は

敦康親王は、失意のうちに、

寛仁2年(1018)12月17日に、

亡くなりました。

わずか20歳の若さでした。

死因は、にわかに発病と伝えられているようです。

陰謀説も噂されているようですが、

私は、その可能性は低いのでは、と思えるのです。

なぜなら、この時代の人々は、霊をとても恐れていたし、

また、藤原道長は、かなり細やかに気を遣う方だったようで、

相手を追い詰めるまではしなかったのではと、考えるからです。

ただ、思いがけなく敦康親王が若くして亡くなられたので、

こんなことなら、一条天皇や彰子の望みを聞き入れ、

敦康親王を先に立太子させておけば、

と悔やんだことでしょう。

というのも、

寛仁4年(1020)、道長の孫である後一条天皇が重病の時に、

敦康親王の霊が、後一条天皇のところに出現したそうです。

『小右記』には「また種々の物気(もののけ)が顕露した」と

藤原実資(さねすけ)が記しているそうです。

敦康親王の子孫、子供はどうなった?

敦康親王が若くしてこの世を去った後、遺された娘は、

どうなったのでしょうか?

敦康親王の娘(嫄子げんし女王)は、

藤原頼通(藤原道長の息子、彰子の弟)の養女として

育てられます。

そして、長歴元年(1037)、後朱雀天皇(彰子の次男)に

入内したのです。

敦康親王の死から20年近く経って、ようやく彰子は、

彼の血を引く娘を、皇統に入れることができたのですね。

入内後は、中宮となり、二人の皇女を産みました。

二人の皇女のうち、長女の祐子ゆうし内親王の所へは、

歌人の菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)が

仕えたことで知られています。

菅原孝標女は、『更級日記』の作者で、源氏物語に憧れ、

愛読したようです。

また、次女の禖子ばいし内親王は、

幼い頃から和歌に優れ、

勅撰集にも歌の入る歌人として知られているそうです。

一条天皇や定子の遺伝子、かもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

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