藤原賢子(ふじわらのかたこ/かたいこ)
(大弐三位)(だいにのさんみ)は、
紫式部の娘であり、平安時代中期の歌人として
百人一首でも知られています。
NHK2024大河ドラマ 光る君へ の登場人物で、
大人になった藤原賢子(大弐三位)を演じるのは、
南 沙良(みなみ さら)さん。
成長した賢子が、これからどうなるのか、
私も、気になります。
そこで、
大弐三位(藤原賢子)の夫、子供や性格、
藤原道長や、紫式部との関係を調べてみました。
大弐三位(藤原賢子)の夫は誰?
まず、大弐三位(藤原賢子)の恋愛のお相手として、
藤原頼宗(道長の二男)や、藤原定頼(公任の長男)が
知られています。
他に、源朝任(時中の三男、雅信の孫)とも
親しくしていたようですね。
次に、大弐三位(藤原賢子)の夫について調べると、
どうやら、二人の名前があがります。
一人目は、藤原兼隆(ふじわらのかねたか)、
関白道兼の二男・道長の甥です。
二人目は、高階成章(たかしなのなりあき)
のようです。
藤原賢子の女房名(にょうぼうな)が
「大弐三位」(だいにのさんみ)と呼ばれたのは、
賢子の女官位「従三位」(じゅさんみ)と、
二人目の夫、高階成章の官位「大宰大弐」を組み合わせた
呼び名のようですね。
ちなみに、女房名といのは、後宮で中宮に仕えた時の
呼び方で、いわば、お仕事するときのビジネスネーム。
平安時代は、女性は本名をむやみに教えないことになって
いて、逆に、名前を尋ねられた時に教えるのは、
プロポーズにOKしたとみなされたようですよ。
(・・余談ですが、男性はよく似たお名前が多くて、
私は、なかなか覚えられなかったですが、
大河ドラマ 光る君へ のおかげで
イメージしやすくなり、覚えやすくなった
のはありがたいです。・・)
大弐三位(藤原賢子)の子どもや子孫は?
藤原賢子が27歳の時(万寿2年、1025年頃)、
藤原兼隆との間に、女の子が生まれたようです。
この女の子は、のちに源良宗の妻となり、
大弐三位(藤原賢子)の孫にあたる源知房が生まれたと伝わって
いるらしいです。
なお、大弐三位(藤原賢子)は、女の子を生んだ年
(万寿2年、1025年)の8月に、
東宮である敦良親王の皇子の
親仁親王(ちかひとしんのう)(のちの後冷泉天皇)の
乳母(めのと)に選ばれました。
ただ、乳母をつとめている間に、もしかしたら
兼隆とは疎遠になってしまったのでしょうか、
やがて、藤原賢子(大弐三位)は、高階成章と
結婚(再婚?)し、息子・為家と、娘がひとり
生まれたようです。
娘(名前は不明)は藤原通宗の妻となり、
その子・藤田宗子は、歌人の大弐として
知られているようです。
また、息子・高階為家の娘は、高階基章を生み、
さらに、高階基章の娘は、平清盛の正室になり、
平重盛や平基盛を生んだそうです。
まさか、大弐三位(藤原賢子)の子孫が、
あの平家の棟梁の正室となっていたとは、
私は驚きました。
大弐三位(藤原賢子)の性格はきつかった?
大弐三位(藤原賢子)の性格はきつかったのかなと、もしも
そんな印象を持たれるとしたら、
百人一首の歌による、イメージかもしれません。
有馬山
猪名の笹原
風吹けば
いでそよ人を
忘れやはする
大弐三位
《通釈》有馬山の近くの猪名の笹
原に風が吹くと、そよそよと笹の
音がする。さあ、それですよ、(頼
りにならないのはあなたの方で)
私があなたを忘れましょうか、い
や、決して忘れてはいませんよ。
引用:古典の学習 小倉百人一首 中央図書
この歌は、会いに来なくなった男が、私が心がわり
するかもしれない、心もとないというのを聞いて
詠んだ歌だそうです。
足が遠のいた男への恨みごとを込めた、強い調子の歌
なので、ややきつい印象がありますね。
たまたま、この歌がとても有名なのですが、
大弐三位(藤原賢子)の、他の歌からは、
素直で朗らか、率直な人柄だったと感じられる
らしいです。
きっと、それだから、多くの貴公子から
大弐三位(藤原賢子)は愛されたのでしょう。
大弐三位(藤原賢子)の父は藤原道長って本当?
大弐三位(藤原賢子)の母は紫式部ですが、
NHK2024大河ドラマ 光る君へ では、
大弐三位(藤原賢子)の父が藤原道長とされて
います。
ですが、これはあくまでドラマの設定上です。
ちなみに、9月8日に大津市民会館にて、
大河ドラマ「光る君へ」出演者たちのトークショーが
開かれ、一部が後日、テレビでも放映されました。
その中でスタッフの方が「道長が賢子の父という設定は、
源氏物語を紫式部が書くにあたり、彼女の心に枷(かせ)を
負わせるために、そういう設定にした」という主旨のことを、
話されていました。
大弐三位(藤原賢子)の父は、
藤原宣孝(ふじわらののぶたか)です。
遠縁の方で、紫式部の父の元同僚でした。
明るく、心が広く、小事にこだわらない、楽しい人
でした。
父の明朗な性格が、娘の藤原賢子(大弐三位)にも
きっと受け継がれていたのでしょう。
ただ、残念なことに、藤原賢子(大弐三位)が
まだ2歳くらいの時、父・宣孝は急逝しました。
大弐三位(藤原賢子)と紫式部とはどんな関係?
大弐三位(藤原賢子)の母・紫式部が、夫を失ったあと、
幼い我が子を思って詠んだ歌が、紫式部集にあります。
若竹の生ひ行く末を祈るかな
この世を憂しと厭ふものから
物語などを書くことで、辛いことや悲しみを癒せると
気づき、また、一家の生活費を稼ぐために、女房として
いわば、単身赴任していた紫式部。
娘の藤原賢子(大弐三位)は、母にかまってもらえず、
寂しい思いをして育ったと、ドラマの中では描かれて
います。
思春期に差し掛かり、母への不満をあらわにする
藤原賢子(大弐三位)に、母は、理由を説明します。
生活費の為と、将来賢子が困らぬようつながりを作る
為だと。
何年かのちには、藤原賢子(大弐三位)も、母のあとを
継いで、女房として、中宮彰子(上東門院)に仕えることに
なります。
母・紫式部は40歳前後で亡くなったようですので、
藤原賢子(大弐三位)は後ろ盾もなくなり、心細くなった
らしいですが、母が遺した源氏物語が後ろ盾になってくれた、
つまりは、あの紫式部の娘さんだよね、と周囲に助けられ
たということでしょうか。
大弐三位(藤原賢子)の死因は?
大弐三位(藤原賢子)は長寿で、80歳くらいまで生きたと
伝わっています。歌人として、息子の代わりまで務めたとの
記録もあるようです。
また、中には84歳くらいまで生きたと推察される
ものもあるそうです。
それは、息子の為家が母の所労(病気やわずらいの意)の為に
石清水臨時祭の使を辞した、と記録していた方がいたそうで、
だとすれば、老衰で、84歳くらいでお亡くなりになった
のではと、推察しているらしいです。
私は、息子さんに見守られて旅立ったのなら、良かったと
思いました。
また、大河ドラマでは、大弐三位(藤原賢子)が
何歳くらいまで描かれるのかな、と気になりました。
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