藤原頼通(よりみち)は、藤原道長の長男で、
平等院鳳凰堂を創建しました。
NHK2024大河ドラマ 光る君へ では、
頼通役は、渡邊圭祐さんです。
光る君への中では、頼通が実資や父道長など
から学ぼうとする姿も垣間見え、
私も思わず応援したくなりました。
そこで、
藤原頼通について、何をしたのか、
死因や道長との関係、平等院を建てた理由、
頼通と頼宗との関係や違い、どっちが偉いか
調べてみました。
頼通 何をした?
藤原頼通は、当時最年少の25~26歳で摂政となったそうです。
そして以後、3代の天皇(後一條、後朱雀、後冷泉)を
支え続けました。
頼通の在任期間は、実に50年にわたるとのことで、
歴代では、最も長い在任期間だそうです。
頼通が摂政関白在任中には、政(まつりごと)では
多くの課題がありました。
刀伊の入寇(といのにゅうこう)が起こったり、
平忠常の乱や前九年合戦があったりしました。
また、寺院同士の対立など、宗教への対応も迫られた
ようです。
荘園整理令も、長久・寛徳・天喜年間に
出され、財政の改善を目指したようです。
一方で、歌合(うたあわせ)を催したりしたので、
文化面での頼通の役割が、再評価されているようです。
(歌合は歌会の一種で、多くの歌人を二組に分け、同じ題で
作った歌の優劣を競う会です。)
藤原頼通も、天皇に娘を嫁がせましたが、皇子は授から
なかったため、婚姻による外戚関係は終わってしまいました。
なので、頼通は藤原氏による摂関政治を終わらせた人、
という評価もあるそうです。
とはいえ、50年もの長期政権の結果、
外戚関係がなくても摂関政治は道長・頼通の子孫が行う、
ということになっていったらしいです。
しかもそれは、豊臣氏が関白だった期間を除いて、
明治維新まで続いていたそうですよ。
私は、頼通が50年も在任したという年月の長さに驚き、
また、のちの時代の「五摂家」の源流が、
頼通にあったのだと知って、歴史はつながって
いるんだなと、感慨深かったです。
藤原頼通の死因や道長との関係は?
藤原頼通は、992年(正暦3年)に生まれ、
1074年(延久6年)に83歳で亡くなって
いるそうです。長生きですね。
記録としては、
『百錬抄』という、鎌倉時代後期に公家の日記を
抜粋編集したものの中に、
2月2日条に「宇治前太政大臣薨八十二御宇治」と、
記されているようです。
それ以上の詳細や死因まで記録されているものは、
見つかっていないようでした。
ちなみに、藤原頼通は、宇治殿と呼ばれていたようです。
また、
頼通は、父道長のおかげで早くに出世しました。
頼通の結婚相手について、
具平親王(ともひらしんのう・村上天皇の皇子)が
自分の娘(隆姫女王・たかひめじょおう)を嫁がせようと
とし、道長は、身分の高い姫との縁談話に喜んだようです。
(大河ドラマ 光る君へ では、隆姫女王を
田中日奈子さんが演じています。)
頼通と隆姫女王は仲睦まじい夫婦になりましたが、
子宝には恵まれなかったそうです。
当時、父道長は自身の孫を天皇にしたかったので、
眼病を患う三条天皇に譲位を迫っていました。
三条天皇は、何とか譲位を回避できないかと、
内親王を頼通と結婚させようと、道長に持ち掛けます。
これには、道長も賛成したようですが、
頼通は隆姫女王を愛していたので、
承知しなかったらしいです。
それでも、道長が無理やり話しを進めようとしたら、
頼通は病に伏してしまったそうです。
平安時代は、病の治療にはまず加持調伏したそうで、
そしたら、具平親王の怨霊が出たので、内親王との縁談
はなかったことにした、との伝承もあるらしいです。
愛妻家の頼通、素敵!と言いたいところですが、
実際は、頼通には他に妻が何人かいたらしいです。
跡継ぎだけでなく、天皇の后にするための娘も産んで
もらうからでしょう。
また、頼通の位がかなり上がってからでも、
皆の前で道長から叱責されたり、
一時勘当されたこともあったようですよ。
私は、道長は一家三后といわれるまでの栄華を築いた
人だから、息子頼通にとっては偉大な存在だったの
だろうなと、想像しました。
頼通が平等院を創建した理由は?
藤原頼通は、1052年(永承7年)、父道長の別荘を
お寺に改め、平等院を創建しました。
翌年には、阿弥陀堂(鳳凰堂)が落慶しました。
ちなみに、
平等院は、阿弥陀堂の屋根に鳳凰が飾られていて、
またお堂の形が羽を広げた鳳凰のようにみえることから、
江戸時代初め頃から鳳凰堂というあだ名で呼ばれたそうです。
藤原頼通は、どうして平等院を創建したのか、それは、
極楽浄土のイメージを心に描けるようにするため
ではないかと、言われています。
当時は、末法思想(まっぽうしそう)が広まっていました。
お釈迦様の入滅後、秩序ある社会・正法1000年、
仏教が衰退する像法1000年を経て、
人心が荒れ悪行が広まり仏教世界の終わりが来る末法が、
1052年に訪れると信じられ、人々は不安になりました。
これに対し、「阿弥陀如来に帰依し、念仏を唱えることで、
死後、極楽浄土に往生できる」という浄土教が大流行しました。
平等院鳳凰堂を正面から見るには、人々は池をはさんで
西向きに立つので、西方にある極楽浄土のように見えるようにと、
人々が極楽浄土を心の中に描けるようにと、
建てたらしいです。
また、阿弥陀如来坐像が安置されていますが、
阿弥陀如来は人々を浄土に導いてくれる存在で、
藤原氏から篤い信仰を集めていたそうです。
頼通も、極楽浄土を夢見ていたのでしょうか。
私は、平等院が、千年近い年月の間に
戦乱の影響による放火、
再建されるも宇治大火に見舞われ
寺が荒廃したものの、
近現代になって保全運動により復活し、
世界文化遺産に登録されるまでに
なったということを、初めて知りました。
頼通と頼宗の関係や違いは?どっちが偉い?
頼宗は、頼通の異母弟です。
大河ドラマ 光る君へ では、頼宗を上村海成さんが
演じています。
頼通と頼宗は、母親の家の状況で、
どちらが偉いか、おのずから決まってきました。
頼通の母は源倫子です。倫子の父は源雅信
(敦実親王の三男)で天皇家の血筋であり、
左大臣でした。
頼宗の母は源明子です。明子の父は源高明
(醍醐天皇の皇子)で血筋は申し分なく、
かつては左大臣でしたが、安和の変で失脚し、
明子は叔父(親王)の養女となるも、
その叔父も亡くなっていました。
このことから、頼通の母・源倫子が道長の正妻として
みなされていました。
なので、正妻の子である頼通やその同母弟の教通の方が、
妾妻の子で異母弟の頼宗・顕信たちよりも、
出世が早かったです。
当然ながら、立場も正妻の子の方が上で、偉かったようです。
私は、大河ドラマ 光る君へ を見ていると、
頼通と頼宗は、それぞれの家では長子なので、
お兄ちゃんらしさ、我慢強さも感じますし、
同母兄弟の中で、弟・教通が兄・頼通に抱く競争心も、
実に巧みに描かれていて、今後の展開が気になります。
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