後一条天皇(ごいちじょうてんのう)(敦成あつひら親王)は、
藤原道長の孫で、幼くして天皇に即位し、道長は初めて摂政と
なりました。
NHK大河ドラマ2024 光る君へ では、
敦成あつひら親王を、石塚 錬(いしづか れん) さんが、
後一条天皇を、橋本 偉成(はしもと いせ)さんが、
演じています。
後一条天皇、ただひとりの妻は叔母だったの?
後一条天皇の時代、平安時代中期、当時の天皇や貴族
では、複数の妻を持つことがよくありました。
しかし、後一条天皇は、当時としては珍しく、妻はただひとり、
道長の娘だけでした。
これには、道長の長男藤原頼通(道長は1年で摂政の位を
頼通に譲りました。)と、頼通の姉であり、後一条天皇の
母・国母でもある上東門院(藤原彰子)の方針があった
ようです。
その方針とは、後一条天皇の妻が複数になり、
そちらに皇子が誕生すると、藤原道長の家で支えてきた
皇統が、他に移ってしまうおそれがあるから、他家から
の妻は入れないというもの、らしいです。
後一条天皇のたったひとりの妻は、名前を藤原威子
(いし・たけこ)といいました。
NHK大河ドラマ2024光る君へ では、
藤原威子たけこを 佐月 絵美(さつき えみ)さんが
演じています。
実の叔母(後一条天皇の母・彰子の同母妹)にあたる
女性でした。
年齢差も、後一条天皇が11歳の頃に、20歳のたけこが
入内したので、天皇よりも9歳年上でした。
叔母たけこからみたら、後一条天皇(敦成あつひら親王)は、
生まれたときからよく知っている甥ですよね。
時には、遊び相手もしたことでしょう。
しかも、年齢差もあるので、妻になる時、たけこは恥ずか
しかったらしいです。
年齢差はともかくも、温厚な天皇で、夫婦円満だった
らしいです。
妻として、叔母であるたけこが入内し、やがて、立后したこと
により、道長の娘3人が、歴代3代の天皇の后となったので、
『一家三后』と呼ばれたそうです。
有名な『この世をば 我が世とぞ思う 望月の
欠けたることの なしと思えば』という和歌を
道長が詠んだのも、この頃のようです。
ただ、この和歌は、祝いの宴席で即興で詠んだようで、
意味の解釈については、望月を、
空の月が満月で欠けてないように、すべてそろって満足、
というのが有名ですが、
別の解釈としては、
今夜の楽しい宴席で、酒を酌み交わす盃(さかずき)
(つき)が欠けてない、つまり、私の月である娘(后)
たちも皆が全員揃っているから、
というような感じの解釈も、あるらしいです。
私は、後一条天皇の妻は実の叔母だったと、あらためて
確認してみて、道長の徹底ぶり、とことん娘は天皇へ嫁がせ、
外戚関係を盤石にするぞ、という揺るぎない意志を、
感じました。
後一条天皇、母は?
後一条天皇(敦成親王)の母は、道長の長女・彰子あきこ
です。
母・藤原彰子あきこは、12歳くらいで後一条の父・一条天皇の元へ
入内し、皇子を生むことを道長から期待されました。
しかし、まだ幼かったのと、当時は先に中宮定子が入内しており、
父一条の寵愛も一身に受けていたので、母・あきこは寂しく
年月を過ごします。
それでも、中宮定子が若くして亡くなり、また、
道長が、中宮彰子の女房として紫式部を出仕させ、
源氏物語を書かせ、帝にお読みいただくことで、
帝のお気持ちが母あきこに向くようにしたり、
金峯山にお参りしたり、思いつく限りの努力を
重ねました。
また、母・彰子自身も、紫式部から漢詩を学び、
夫一条天皇のお心がわかるようになりたいと努める
などして、
実に入内から10年余りたって、母・彰子あきこが22歳くらいで、
初めての子、敦成親王(のちの後一条天皇)を出産しました。
その出産の様子は、紫式部日記にも詳しく書かれているようです。
道長が、のちに天皇となる御子の誕生を、女房である紫式部に
記録させたらしいです。
後一条天皇、弟はだれ?
後一条天皇、子供は女子でも天皇に?
後一条天皇には二人女の子が生まれました。
皇子でなかったため、周りは残念がったようですが、
当の後一条天皇は、娘たちをとてもかわいがった
ようです。
そして、女の子でも天皇になればいいよ、過去に
そういう例があったようだよ、と言って、妻威子を
慰めたと、伝わっているらしいです。
私は、命がけで出産した妻に、いたわりの優しいお言葉を
かけてくださった素敵なご主人ね、と思いました。
ただ、上の子供が10歳になる前に、両親・後一条天皇と
威子たけこは若くして亡くなったそうです。
なので、後一条天皇の二人の子供は、父方の祖母(母方だと
伯母)にあたる上東門院彰子の元で育てられたそうです。
そして、長女:章子内親王は、後冷泉天皇の中宮となり、
次女:馨子内親王は、後三条天皇の中宮になったっそうです。
私は、上東門院彰子様、夫・一条天皇に続き、息子さんや
妹さんにも先立たれて、お辛かっただろうな、でも、国母として
の責任感もあり、遺された子供たちを、愛情をもって教育されたの
だろうなと、思いました。
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